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会員からのメッセージ欧州地震防災のルーツを探る:250年前のリスボン地震から



欧州地震防災のルーツを探る:250年前のリスボン地震から

神戸大学工学部 助教授
鍬田 泰子

 関西ライフライン研究会が設立されて、本年は15年目にあたる。この15年の間に兵庫県南部地震が発生した。多くの施設は被災したが、本地震で得られた教訓はその後の復旧・復興だけでなく日本国内の地震防災の中で大きく寄与している。とくに関西のライフライン事業における地震対策は、国内のライフライン事業の中でも最先端にいるといっても過言ではないだろう。やはり、実際に大地震を経験していることは大きい。各ライフライン事業者の専門家の皆さんを前にして、若輩者がライフライン云々を申すことは釈迦に説法である。そこで、ここでは、最先端とは逆に、欧州における地震防災の進展過程の一つとして、250年前のリスボン地震から地震防災のルーツについて探ってみる。院生の頃、高田教授の薦めもあって本地震について資料を収集しており、ここではそれを含めて紹介したい。本項の趣旨から少し外れるが、ティーブレイクとして読んでいただければ幸いである。

 欧州において、紀元前のローマ帝国時に建設された水道橋やコロッセオなどの巨大構造物に施されているアーチ構造の建設技術は、その当時に耐震工学がすでに確立されていた証しである。とくに、中世における欧州都市の衰退は、軍事的・政策的な要因の他に、地震による都市基盤の崩壊も大きな要因であったことから、耐震的な構造物の建設は時の権力者の下で着実に行われていたことであろう。しかし当時の人々の考えには、地震は神によって与えられた罪であると専ら捉えられており、地震発生メカニズムや地震防災に関する学問は体系化されていなかった。近年の学問体系とほぼ近い段階に至るのは、長い欧州の歴史の中でごく最近のことである。それには、まず、地震が自然科学の中の物理メカニズムによって発生する自然災害の一つであると理解することが必要であった。つまり、宗教的概念からの脱却こそが理工学分野としての地震防災の始まりであったと云える。1755年にポルトガルの首都リスボン(Lisbon)に甚大な被害をもたらした地震は、欧州における現代都市の震災復興の起源と考えており、アーバニズム(Urbanism)の視点から広く研究されている。これらの文献を探しているうちに、当時の色々な話があったのでここで紹介する。

 【リスボン地震】
  リスボン地震は1755年11月1日全聖人の日の土曜日、午前9時30分頃発生した。地震の揺れは10分以上も続いたと云われている。リスボンからスカベム(Sacavem)への海岸沿い6、7マイル、海岸から内陸部にかけて1.5マイルの付近は地震被害が甚大であった地域である。ペレイラ・ディ・ソウサ(Pereira de Sousa)は修正メルカリ震度法を適用して、リスボン周辺の修正メルカリ震度階がX程度であったと推定している。Fig.1は、リスボンの海に面した町カイス・ド・ソドレ(Cais do Sodre)付近の被害状況を示している。海岸近くの多くの教会は、崩壊または大部分の修復が必要なほど被害を受けている。剛健な建物でも大部分が被害を受け、小さな住家や店舗は完全に崩壊した。地震被害をさらに拡大させたのは、火災であった。火は地震後約1週間燃え続けた。王宮やその年の3月に建設されたばかりのオペラハウス、行政機関などの多くの建物が焼失した。地震による死傷者は建物の倒壊、火災、津波によるものである。死者数は文献により前後するが、10,000人から15,000人と推定されている。地震後に被災者が他の地域へ避難したために被害者総数を把握できないこと、元の人口統計資料が火災で焼失してほとんど残っていないことから、正確な死者数が把握できなかった。また、全聖人の日であったことから、教会に礼拝をしに来た人の多くは教会の倒壊によって亡くなっている。また、イギリスやアイルランドでは午後2時ごろ、インド西部では午後6時ごろに津波が観測されている。

リスボン地震

Fig.1 リスボン地震1)

 当時のリスボンは、人口275,000人を抱え、欧州都市の中でもロンドン、パリ、ナポリに続いて四番目に大きかった。1690年代に植民地ブラジルで発見された金とダイヤモンドによって、当時のポルトガル経済は世界の中でも非常に潤っていた。王室や教会には、宝飾品や金、絵画が収集され、貿易活動も盛んで、多くのイギリス人やドイツ人は商業活動のために訪問していた。1705年から1750年まで、ポルトガルはジョン5世(John V)によって統治されていた。彼はブラジル金の利益で記念碑や宮殿を建設させる浪費家であった。1942年に彼が病床に伏して以降、政治権限は聖職者に奪われ、王室の監督者はイエスズ会となった。

【マルケス・ディ・ポンバル】
  1750年、ジョン5世が亡くなり、彼の息子ジョゼ1世(Jose I)が36歳にして国王に即位した。彼の即位三日目、サバスティオ・ジョゼ・ディ・カルバルホ・エ・メロ(Sabastiao Jose de Carvalho e Melo)が外相軍事省長に選ばれた。この彼が後のマルケス・ディ・ポンバル(Marques de Pombal)であり、リスボン地震の復興に力を注いだ第一人者である。
  ポンバルは1699年に、ポルトガルの軍人や聖職者として仕える上流階級の家庭に生まれた。青年になり、彼は大司教教会に勤める叔父の紹介により王室で働き始めることになった。そして、彼の出世人生は、彼の結婚以降に始まった。結婚後は経済的にも社会的地位にも恵まれた。1739年から1743年までは、ロンドンのSt. James王室でポルトガル国王の代理を務め、イギリスの大イギリス工場の拡大方法を学んだ。1745年にはウィーン使節団として派遣される。このとき、彼は第一夫人を亡くしたが、次いで有名な家柄のオーストリア女性を第二夫人として迎え入れた。そして、彼はオーストリアのマリア・テレサ(Maria Theresa)王室で働き始めた。ロンドンからウィーンへの派遣は、ロンドンの経済産業界で活躍するポンバルを妬むポルトガル王室内の天敵によって仕組まれたものであった。ウィーン滞在中、マリア・テレサがイエスズ会の支配からウィーン大学を略奪しようと試みたことを彼は目の当たりにしていた。その後、1949年にポルトガルに戻り、ジョゼ1世の外相軍事省長になるが、その頃には、彼はこれまでの経験を通じてポルトガルの経済的・政治的な弱点を十分知り尽くしていた。一方で、ポルトガルのような小国がイギリスのように国際的貿易国として経済的に繁栄することを期待していた。しかし、当時イエスズ会は南アメリカの植民支配を牛耳っており、また新しい科学思想を排除した教育システムを独占していた。ポンバルにとって、イエスズ会はポルトガル経済の発展において目の上のタンコブであった。

【リスボンの復興】
  1755年、リスボン地震が起こる。ジョゼ1世は、政治には全く関心がなく、乗馬・賭け事・オペラ鑑賞などの趣味に没頭していた。もちろん、地震直後、緊急事態に対応できるはずがなかった。地震後、ジョゼ1世とポンバルの間でどのような会話がなされたか定かではないが、ジョゼ1世が「どうすべきか」とポンバルに尋ねた際、ポンバルは「死者を埋葬し、住居を与えよ(Bury the dead and feed the living)」と勧めたという記述が残されている。その後、王は地震の緊急対応に関する全ての権限をポンバルに与えた。
  ポンバルが緊急対応として重要視したことは、ペストの予防であった。地震で犠牲になった人間や動物の死体が腐敗することを恐れ、11月2日には大司教に教会の指示によって犠牲者を葬ることを依頼した。また、被災者に食事を与えた。海外から食材を取り寄せ、調理人などを他都市へ避難させずに被災地で食事供給に携わらせた。また、食物の物価上昇を懸念し、隣町からの輸送費を無料にするなどして物価を制御した。
  地震後一ヶ月以内には、技術者らにガレキの廃棄場所、廃棄物輸送経路、撤去車などのガレキ撤去方法に関して取りまとめさせた。建造物の再建は地震直後から行われ、地震1年後には、約1,000戸の公共住宅が準備された。また、復興においては、マスタープランを作成し、計画に沿わない被災地での再建を中止させた。この復興計画は、現在のTerreiro do Pacoやリスボン中心部にある格子状道路網にも反映されている。また、建造物もポンバル式建築と呼ばれ、現在にも残る。以降、リスボンは18世紀の都市計画の典型的事例となった。

【地震発生メカニズム論争】
  この当時、スペインでは地震の発生メカニズムについて論争が起こっていた。リスボンから約200マイル南のカディツ(Cadiz)のプエルト・デ・サンタマリア(Puerto de Santa Maria)に住む科学者ジュアン・ルイス・ロケ(Juan Luis Roche)は、11月1日の地震について11月2日付の友人に送った手紙で述べていた。地震の揺れに対する記述が注意深く書かれていた。ロケはコンパスを用いて崩壊したレンガの位置や地震動が動いた方向に関する研究をしていた。しかし、地震発生の原因について科学的に説明するには、被災事象の記述では十分ではなかった。
  オヴィエド(Oviedo)(ポルトガル北部の都市)に住む80歳のベニト・ジェロニモ・フィゾ・イ・モンテネグロ(Benito Jeronimo Feyzoo y Montenegro)は友人であるロケにいくつかの手紙を送っていた。彼の記述は、現在においてはさして重要なものではなく、一般的な推測に過ぎなかった。しかし、ロケはこれらの手紙がスペインに新たな感覚をもたらす文学的・科学的な観点をもっていると察し、1756年にプエルト・デ・サンタマリアでフィゾの手紙を出版した。そのタイトルには、「今日電気的な現象として解明される地震の物理的原因に関する新説−1755年の11月にスペインで感じられた地震についても適用される−」と書かれていた。内容は、ロケのエッセイによってまとめられていた。手紙はフェゾによって書かれたもので、「18世紀に頻繁に発生している地震は地盤物質が徐々に収縮することによるものならば、これは地球が崩壊する不吉を示唆する前兆であるかもしれない」とフィゾは考えていた。さらに、「この地震動はフランスでも感じられているので、他の科学者によってこの事象に関する良い事例が示されれば、とフィゾは期待を添えて述べていた。そして、地震の事象については「電気的な理論(Electricity theory)」と名づけられた。さらにポルトガルの南部のカディズ(Cadiz)と北部のオヴィエド(Oviedo)が500マイル以上も離れているが、11月1日9時45分の同時刻に三つ目の地震があったことを教会の時計によって証明していた。ロケはこの新説に感嘆したが、一方嫉ましくも思った。なぜなら、電気理論はロケの専門分野であったからである。そして、この科学的理論は実際の地震の原因ではないとロケの出版物であるNuevo Systemaで友人の科学者らとともに反論した。しかし彼の出版物は、フィゾや電気理論に関するものだけでなく、地震に対する適切な姿勢をもっていた。ロケはセヴィレ(Seville)に住む二人の若手科学者を呼んでフィゾに対抗しようとした。その一人は、科学者ジョゼ・セバロス(Jose Cevallos)で、セヴィレ大学の講師で賢明な科学者であった。セバロスはフィゾの理論に賞賛していたが、フィゾが地震発生メカニズムの問題を解明したとは全く思っていなかった。彼は、セヴィレとリスボンが地震の帯で連結されている理論を持ち出したが、過去の地震報告から常に同様な被害を受けているということは立証されなかった。しかし、彼が論文で述べた中で重要なことは、地震は特別なものではなく、自動車の運転事故のように人生の中の一般的な危険の一つであるということである。
  この後、司教らは、地震は神による罪の証しであり、科学者らが示す新たな電気理論やコペルニクスの地動説などに反抗した。セバロスは司教らに手紙を出し、電気理論は新しく、聖書にも記されておらず、古代にもそのような証拠は残っていないこと説明した。そして、11月1日の地震は自然原理による地震であることを示した。さらに、地震が発生する前に地震に耐えるような住家の建設、避難訓練、消火活動の訓練などを備えるために、地震の発生メカニズムと地震被害に関する理工学研究が必要であることを一般に知らせるべきである、とセバロスは述べている。
  確かにポンバルはイエスズ会を追放し、都市復興を成し遂げ、ポルトガルの貿易経済も活性化させた。これらのポンバルによる都市復興は、当時の啓蒙活動(Enlightenment)と言われている。しかし、その復興計画の根本には、彼自身が地震は自然災害の一つであると見なし、そして多くの住民たちが彼の考えや復興計画を受け入れたことがある。この地震概念の転換には、当時の多くの科学者が貢献した。理工学な手法で証明するに至らないものもあったが、一般市民の興味を引くだけの影響力があった。

【そして、現在】
  現在、日本の子供に地震はどのようにして発生するのかと聞いても、神様によって与えられた罪と答える子供はいないであろう。しかし、海外で地震の被害調査を行っていると、住民の中には単なる自然現象ではなく、神様が助けてくれたと宗教的な概念を持っている人が多いことに気づく。幼い子供達に地震が発生しているイラストを一枚見せるだけで、将来の地震による犠牲者を少しでも減らすことができるのではないかと、今日この頃思う。

本稿は、下記の参考文献を引用している。
参考文献
1) Dynes, Russell R. (1998). “The Lisbon earthquake in 1755: contested meanings in the first modern disaster”, Disaster Research Center, Department of Sociology and Criminal Justice, University of Delaware. (Unpublished) 1997, 1-32. http://www.udel.edu/DRC/preliminary/255.pdf
2) Kendrick, T. D. (1956) . The Lisbon Earthquake, London, Methuen and Co. Ltd
3) Images from the Kozak Collection, Earthquake Engineering Research Center



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